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March 26, 2012

原発に関するセンチメントの愚

 「石原慎太郎 原発に関するセンチメントの愚」(産経新聞:2月6日)

 よくぞ書いてくれたと思う。わしは電力会社の地域独占や参入規制、原子力発電に関わる利権構造などは撤廃すべきだが、原子力発電そのものは推進すべきであると考えている。

 「軽量の放射能に長期に晒(さら)される経験は人類にとって未曽有のものだけに、かつての原爆被爆のトラウマを背負って倍加される恐怖は頷けるが、しかしこうした際にこそ人間として備えた理性でものごとを判断する必要があろうに」

 「人間の進化進歩は他の動物は及ばない人間のみによるさまざまな技術の開発改良によってもたらされた。(略)その成果を一度の事故で否定し放棄していいのか、そうした行為は『人間が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方を否定するものだ』」

 「人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的なことに見えるが実はひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない」

 石原氏が書いているのを読んでいて、頭に思い浮かんだのが次の本。参考まで。

 ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス「ヒューマン・アクション―人間行為の経済学」(春秋社)
Humanaction


 「原発に関するセンチメントの愚」を引用する。日本人必読。

 人間はさまざまな内的な衝動によって行動を起こす。内的な衝動には高尚な理念理想もあり、友情、忠誠、責任等々世俗な義理もあり、オウム真理教の信徒たちを駆り立てた信仰に根差した狂気まである。

 これは他の動物たちにはあり得ぬことで、動物のとる行動は飢餓や恐怖、あるいは自衛の本能に駆られたもので人間のような理念を踏まえてのさまざまな行動などはありえない。しかしそれをもって人間の動物としての優位を誇る訳にはいきそうもない。

 人間の理念理想なるものが価値あるものとして許容される範囲には当然限りがある。オウム信者の狂気は社会的には理念としてとても許容され得ないし、キリスト教での魔女狩りなども同断だろう。それらが表出しての行為は理性をはみだし奇矯で独善排他的で時には有害でもある。しかしなお当事者たちはそれがある種の理念に依(よ)るものゆえに、理の通ったものと確信してやまない。この種の逸脱は大小こと欠かないが、それが淘汰されない訳は、それらの逸脱が人間だけに共通な情念(センチメント)に依るものだからに他ならない。

 そしてこのセンチメントほど実は厄介なものはない。それは理性をも超えて優に人間を左右してしまう。その最たる現象は恋愛で、一旦誰かに強く惚れてしまうとある場合には見境がつかなくなる。あんな相手と一緒になったら酷い目にあうぞとはたがいくら忠告しても、ある場合には聞く耳持たずに突き進み人生の破綻をも招いてしまう。

 この世で恋愛は茶飯のことだから周囲はそれを常識の枠で捉え眺めて過ごそうとするが、ある人間にとってはそのセンチメントは枠からはみだして当人自身にも抑制がきかなくなってくる。以前九州で起こった殺人事件は男が恋人当人ではなしに、その祖母と母親を殺してしまう異常なものだったが、男のしつこいストーカー行為を取り締まるよう再三依頼された警察の不手際で発生したと指弾されていたが、ことがそうした軽犯罪を取り締まる生活安全課から刑事課に移されたことが引き金になり悲劇の到来となった節がある。刑事の専門家からすれば市井のたかが恋愛沙汰にいちいちかまっていられるか、他に深刻な犯罪容疑や未解決の事件もあるのに、ということで捜査の優先順位はむしろ前の担当部門よりも低いものにならざるを得なかったに違いない。そのことで警察を非難するのは容易だが、警察というあくまで常識を基準に職務を遂行する立場からすれば、恋愛に破れて罪を犯す者の衝動のセンチメントについてまで計量するのは埒外(らちがい)のことに違いない。

 長々した前節を構えて私がいいたいことは、福島の原発事故以来かまびすしい原発廃止論の論拠なるものの多くの部分が放射線への恐怖というセンチメントに発していることの危うさだ。恐怖は何よりも強いセンチメントだろうが、しかしそれに駆られて文明を支える要因の原発を否定してしまうのは軽率を超えて危険な話だ。軽量の放射能に長期に晒(さら)される経験は人類にとって未曽有のものだけに、かつての原爆被爆のトラウマを背負って倍加される恐怖は頷けるが、しかしこうした際にこそ人間として備えた理性でものごとを判断する必要があろうに。理性的判断とはものごとを複合的に捉えてということだ。

 ある期間を想定しその間我々がいかなる生活水準を求めるのか、それを保証するエネルギーを複合的にいかに担保するのかを斟酌計量もせずに、平和の内での豊穣な生活を求めながら、かつての原爆体験を背に原子力そのものを否定することがさながらある種の理念を実現するようなセンチメンタルな錯覚は結果として己の首を絞めることにもなりかねない。

 人間の進化進歩は他の動物は及ばない人間のみによるさまざまな技術の開発改良によってもたらされた。その過程で失敗もありその超克があった。それは文明の原理で原子力もそれを証すものだ。そもそも太陽系宇宙にあっては地球を含む生命体は太陽の与える放射線によっても育まれてきたのだ。それを人為的に活用する術を人間は編み出してきた。その成果を一度の事故で否定し放棄していいのか、そうした行為は「人間が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方を否定するものだ。人間が猿に戻ると言うこと-」と吉本隆明氏も指摘している。

 人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的なことに見えるが実はひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない。

 日本と並んで原子力の活用で他に抜きんじているフランスと比べれば、世界最大の火山脈の上にあるというどの国に比べてももろく危険な日本の国土の地勢学的条件を斟酌せずにことを進めてきた原発当事者たちの杜撰(ずさん)さこそが欠陥であって、それをもって原子力そのものを否定してしまうのは無知に近い野蛮なものでしかありはしない。

 豊かな生活を支えるエネルギー量に関する確たる計量も代案もなしに、人知の所産を頭から否定してかかる姿勢は社会全体にとって危険なものでしかない。

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