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December 06, 2011

太平洋戦争は「日本を滅亡させるバカげた戦い」だったのか!?

 産経新聞がこの1年を通して連載していた企画「日米開戦 70年目の検証」の最終回を読んで驚いた。朝日新聞ではなく、産経新聞が、太平洋戦争は「日本を滅亡させるバカげた戦い」だったというのだ。12月1日の御前会議については「正式に開戦を決めた歴史的会議はわずか2時間で散会した」という。そして、その時に昭和天皇の「開戦回避の聖断があったなら」、戦争は避け得たというのである。まるで責任が昭和天皇にあるかのような書き方だ。

 日本はアメリカに対して妥協に妥協を尽くしたのに、アメリカは頑として態度を変えなかった。アメリカはそれまでの交渉を全く無視し、ハル・ノートを突きつけ、日本が到底認められない要求をしてきた。戦争を煽ってきたのはアメリカであり、日本に開戦責任はない。

 更に言えば、太平洋戦争で日本が勝つ可能性もあった。特にミッドウェー海戦で勝利していたら。ベトナム戦争のように、アメリカのマスコミを通して世論を反戦に向ける事もできたはずだ(日本は情報戦に弱すぎるのだが)。

 太平洋戦争は、日本の自衛戦争である。それを「バカげた戦い」というのだから、もう産経新聞もお仕舞いだ。もはやどの全国紙も頼みにならない。購読をやめようかと思う。

 記事を引用する。

 ↓ここから
 中国を日中戦争前に戻せという「ハル・ノート」を受け、軍部は高揚、開戦やむなしの雰囲気が充満する。開戦前最後の御前会議では首相の東条英機が冒頭、経過を説明し、反対意見もなく、わずか2時間で開戦が正式決定した。その7日後に真珠湾攻撃。「考」では責任の所在を明確にせず、問題を先送りしたつけが回った当時は現代とも重なり合う。責任を取らないのが日本社会なのだろうか。

                   ◇

《*昭和16年12月 運命決めた会議》

 ■わずか2時間 望まぬ結末

 昭和16年12月7日深夜。天皇拝謁を終えた外相の東郷茂徳は皇居前広場に立ち空を見上げた。砂利の音だけが響く静寂に包まれていた。東条内閣発足以来1カ月半に及んだ日米交渉。「国民のため、全精神を傾倒した。この上は天の感得せられるところだろう」。望まなかった「結末」が数時間後に控えていた。

 「著しき退歩で、交渉経緯を全然無視した不当なものと認めざるを得ない」。6日前、「ハル・ノート」手交を受けた12月1日の御前会議。開戦反対の最強硬派だった東郷も、もはや日米交渉継続を訴えることはできなかった。

 「全将兵は士気極めて旺盛」(軍令部総長、永野修身=ながのおさみ)、「忍耐努力は皇国臣民にして為(な)す能(あた)わずということなし」(蔵相、賀屋興宣=かやおきのり)。首相の東条英機が「挙国一体必勝の確信を持し、戦争目的を完遂する」と締めくくった。正式に開戦を決めた歴史的会議はわずか2時間で散会した。

 その後1週間は穏やかな空気が流れる。「今日の(駐米大使と米国務長官ハルの)会見は割合朗らか」(7日付朝日新聞夕刊)。開戦決意を米側に悟られないよう、言論工作も行われていた。開戦前夜、東条は布団に正座したまま慟哭(どうこく)したという。「12・8」は静かにその時を迎えた。

                 ○ ● ○

 8日午前3時25分(ハワイ時間7日午前7時55分)。世界で初めて登場した空母機動部隊が真珠湾を急襲する。米軍側は戦艦8隻のうち5隻が沈没、死者は2400人を超えた。

 日本の奇襲に、はじめに「歓声」を上げたのは、攻撃を受けた米国の最高責任者、大統領のルーズベルトだった。「自分の代わりに日本が決定をしてくれた」。前年、戦争回避を公約に3選を果たしていた。

 参戦の必須条件だった日本の先制攻撃を実現させた上、前夜のうちに暗号解読で内容を把握していた日本の戦争通告が、駐米日本大使館の不手際で攻撃より遅れたことも喜ばせた。

 「わが敵国(日本)は、いともあざやかなだまし討ちをやってのけた」。開戦後のラジオ演説で、「交渉継続を追求した米国」と「不意打ちを食らわせた日本」という図式を強調、反戦派も多かった米国民を団結させることに成功した。

                 ○ ● ○

 「帝国陸海軍は今8日未明、米英軍と戦闘状態に入れり」。午前7時。NHKアナウンサー、館野守男は「満州事変からの長い間の緊張感から解放された」と感慨に浸り、大本営発表を読み上げた。

 華々しい戦果が続々と伝えられる。「頭上に暗雲のごとく覆い被(かぶ)さっていた重苦しい憂鬱は雲散霧消した」(作家、長与善郎)、「心おごれる老大の 耄碌(もうろく)国を撃ちてしやまむ」(歌人、斎藤茂吉)、「見よ、一億の民おもて輝きこころ躍る」(詩人、高村光太郎)。

 同日、ドイツ総統のヒトラーがモスクワ攻撃放棄を指令、「独の対ソ戦勝利」という開戦の前提が崩れたことも知らず、全国民の熱狂とともに、日本は「日本を滅亡させる、実にバカげた」(内大臣、木戸幸一)戦いに突入してしまった。

                   ◇

 ≪if≫

 ■開戦回避の聖断があったなら

 ソ連が参戦し、広島に続き長崎に原爆が投下された昭和20年8月9日。この日に至っても、ポツダム宣言の受諾条件をめぐり出席者の意見は割れていた。「(遼東半島を中国に返還するよう求められた)三国干渉の時の明治天皇をしのび、戦争を終結することを決心した」。一刻の猶予も許されない状況で、さらなる被害の拡大を食い止めたのは昭和天皇の決断だった。

 天皇は輔弼(ほひつ)(補佐)機関の決定に対し「拒否権」が与えられていない、とする憲法解釈が支配的だった中で下された「聖断」。16年12月の開戦時も、最終局面で軍部を説得し、戦争を回避する手段は他に残されていなかったといえる。

 しかし、従前から絶えず参戦反対を強調してきた天皇の周囲に、その意をくむ者はなかった。杜撰(ずさん)な見通しで「うそばっかり」(元首相・岡田啓介)の国力再検討の実態が進言されることはなく、軍部の執拗(しつよう)な説得に「結局は一戦避け難からんか」と徐々に悲観論に傾いていった。

 「必敗」を確信する側近さえ、「皇室が国民の怨府になる」(内大臣・木戸幸一)と天皇の影響力行使に消極的だった。

 12月1日の御前会議。3カ月前の会議で、明治天皇御製(ぎょせい)の歌を詠み、開戦回避を説いた天皇は終始沈黙を貫いた。ここに天皇の心情が反映されていたのではないだろうか。

                   ◇

■「日米開戦」これまでの掲載日

第10回 11月5日 ハル・ノート手交

第 9回 10月8日 東条内閣発足

第 8回  9月3日 御前会議

第 7回  8月6日 幻の首脳会談

第 6回  7月2日 南部仏印進駐

第 5回  6月4日 独ソ開戦

第 4回  5月7日 松岡修正案

第 3回  4月2日 日ソ中立条約調印

第 2回  3月5日 国交改善交渉

第 1回  2月5日 蘇峰演説
 ↑ここまで

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