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August 14, 2007

「これが李舜臣将軍の鶴翼陣」 歴史を捏造して自己満足する韓国人

 中央日報のページに「これが李舜臣将軍の鶴翼陣」という記事がある。これがまた嘘八百の捏造した歴史を元にしているから笑ってしまう。こんなことをして誇らしげにしている韓国人が哀れに思えてくる。(が、日本には迷惑を掛けないで欲しい。)

 記事から抜粋する。

 ↓ここから
  1592年7月7日、李舜臣(イ・スンシン)将軍が指揮した朝鮮水軍が閑山島(ハンサンド)沖の見乃梁(キョンネリャン)で外敵船73隻のうち66隻を沈没させ、倭軍の水陸併進を挫折させた‘閑山大捷’の鶴翼陣が、415年ぶりとなる12日、慶尚南道統営(キョンサンナムド・トンヨン)閑山島沖で再現された。李舜臣将軍は当時、水路が狭い見乃梁に敵船を誘引し、鶴翼陣を敷いた後、攻撃を敢行し、世界海戦史上類例のない大勝を収めた。慶尚南道統営海洋警察が指揮したこの行事には警察警備艦11隻など114隻が参加した。
 ↑ここまで

 記事に1592年とあるので、秀吉の1回目の朝鮮出兵(朝鮮侵略ではない)である文禄の役を指している。李舜臣が勝利した閑山島海戦が「世界海戦史上類例のない大勝」である訳が無い。Wikipediaから抜粋してみる。

 ↓ここから
 閑山島海戦(かんざんとうかいせん)は、文禄の役における海戦の一つ。 文禄元年(1592年)7月7日に閑山島と巨済島の間の海峡で単独出撃をした脇坂安治の水軍が朝鮮水軍の誘引迎撃戦術により撃破された海戦。
 (略)
 7月8日、日本艦隊を発見した李舜臣は出撃を主張する元均を抑え、囮と潮流を使った迎撃作戦を展開した。また、この艦隊には亀船三隻が参加していたという。 囮と海流に乗って出撃した脇坂艦隊は有力な朝鮮水軍の迎撃を受け大きな被害を出し、脇坂安治も窮地に陥るが、座乗船の大きさと櫂の数による機動性を生かして撤退に成功した。
 李舜臣は自身の記録である乱中日記で日本艦隊の発見数を大船36隻・中船24隻・小船13隻、撃破数を63隻と記録している。しかし、脇坂安治への動員定数が1500人であることを考えると発見数と戦果は過大評価の可能性が高い。(翌年5月の晋州城攻撃時の脇坂軍の点呼員数は 900人)
 (略)
 7月14日に閑山島海戦で脇坂軍の敗北を知った秀吉は積極的な艦隊出撃による海上決戦を禁止し、水陸共同による沿岸迎撃作戦への転換を指令し、武器弾薬や沿岸防備の増強を行った。この戦術転換は同時の水軍からすれば有効に機能しており、以降の李舜臣による水軍攻撃は成果が上がらなくなり被害が大きくなり出撃も減ることとなる。
 (略)
 当初の日本軍には朝鮮南岸を西進する明確な目標も作戦も投入兵力もなく、本海戦もあくまでも朝鮮水軍の被害が有ってこその日本艦隊の出撃であり、日本の海上補給は全戦役を通じて継続されており、遮断されたわけでもない。当時の水軍の能力では制海権の保持には非常に多くの制限があり、海戦に敗北したとしても戦局に大きな影響を与えるような要素ではなかったといえよう。
 ↑ここまで

 韓国では英雄の李舜臣だが、所詮その程度。韓国のよくやる歴史の捏造・歪曲にすぎない。問題は日本でも李舜臣に高い評価を与える者がいることだろう。中学の歴史教科書などその最たるものだ。もっと客観的に事実を見るべきである。

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